人生って何だろう

第1回  宗教との関わり方

無宗教の国、日本

「日本って無宗教の国だよね。」ってよく耳にします。
宗教がなんであるかも知らないのに、ただニュースで見た詐欺の被害者を見て、
「俺は騙されないぞ。」と壁を作り、近づかないように用心している。
別に無宗教という宗教に帰依している訳ではないように思います。
騙されることが怖いのであって、宗教そのものを理解し恐れている訳ではないようです。

海外に行くと、よく宗教を尋ねられます。
基本的には「I am buddism」と答えておけば間違いはありませんが、
ヨーロッパでは「buddism」は宗教ではなく、学問だと捉えられています。
現に、仏像を芸術の観点から考察した本は無数にあり、宗教の対象物として
捉えてきた日本では、学術的見地から見てかなり遅れをとっています。
つまり、宗教が学問以下であるはずがないという理論の元に、
日本人は宗教を持たないと思われているのです。



現代教育と宗教

宗教と教育が二分されてから、かなりの月日が経ちました。
はたして日本という国は良くなったのでしょうか。
ごはんを食べる前に「いただきます」と手を合わせるのは、宗教活動だとして学校にクレームをつける親もいると聞きます。
この飽食の時代に有難味を教えるよりも、勝ち抜くすべを教えた方が子供の為になると思っているのでしょう。
そんなここ30年の教育の在り方が、結果として現代のテレビから流れる情けない犯罪を犯す人物達を作ったと、言えなくもないと思います。
宗教=倫理・道徳と考える人たちからすれば教育に必要だとなるし、宗教=勧誘・思想操作だと考える人にとっては必要のないものとなります。
大人たちが宗教とは何かを学ばずに生きてきたのに、正しく子供たちに伝え・選択させることが出来るのでしょうか。
なんでもかんでも宗教だと言って一括りにせず、倫理は倫理・道徳は道徳として子供と向き合うべきだと思います。
人の道を説くことは、そんなに恰好悪いことではないはずです。そしてそれは宗教ではないと思います。

宗教とはなにか

では、宗教とは一体何であるのか。倫理道徳的思想を取り除いた後、何が残るのか。それは希望だと考えられます。
人は困難に直面すると、その困難に立ち向かおうとします。出来るだけの能力を使って克服しようとします。しかし、場合によっては
挫折したり、臆したりするものです。そんな時、物理的に不可能な答えを非現実的思考によって精神の安定を図り、一歩でも前に進む。
ここで言う非現実的思考というのが宗教であり、希望となります。困難が大きいほど想像しうる現実とかけ離れていきます。
それが奇跡と呼ばれる現象で認識されるのです。奇跡があって宗教があるのではなく、宗教を持つことで結果奇跡と呼ばれる状況に対峙する機会が増えるということです。
宗教とは、生きていく上で困難によって不安定となる心を支える為の道具(手段)のひとつ、ではないかと感じています。

宗教の必要性

そこで「無宗教な人」という言葉を考えてみますと、困難からくる不安や動揺を宗教を使わずに克服出来る人と解釈出来ます。
外国人から見た日本人に対するイメージの中に、「侍」や「切腹」というイメージが現代でも強くあるのは、
戦中・戦前の野蛮な国のイメージがあるからでしょう。
倫理道徳の欠如した時代を生きた人間が、
宗教を持たずに正しく生きるとは理解に苦しむといったところでしょうか。
宗教を重んじる国(諸外国)からすれば、神(教え) 以外に、だれが正しさを導くのかという疑問が生まれて当然です。
宗教によって倫理があり道徳が存在するというのが、宗教国家なのですから。
外国人が宗教を尋ねるのは、相手の宗教(倫理道徳)を害さないためのエチケットでもあり、また、宗教的倫理道徳を備えているかを知る為だと思います。
もし日本人が宗教を持たなくても、倫理道徳をきちんと持つことが出来るなら、胸を張って「No religion]と言うべきだと思います。

人生と宗教

宗教の概念が固まったところで、人生において宗教との関わりを考えてみましょう。
私たちは宗教のなんたるかが解っていないために、あえて無宗教を名乗り、また、避けてきました。
宗教は持たなくても、倫理道徳を持つことの出来る無宗教者と考えるならば、それは有りだと思います。
元々年末には、メリークリスマス(キリスト教行事)と言い、年が明ければ除夜の鐘を突き(仏教行事)、数日内に初詣(神道行事)に行く。
節操のない信仰を繰り返してきたわけですから、今更宗教者ぶってもしょうがありません。
更に、子供の受験だと聞けば大宰府天満宮にも行くし、お盆には御先祖の墓にも手を合わせるし、結婚式では十字架の前でタキシードを着る、これらの行為は
倫理道徳を重んじる我が国独特の宗教の在り方だと思います。人生でこれほど宗教に関わっているのに、信仰の対象が見えないのは、
尊敬の対象が人であるからではないでしょうか。例えばAさんがお百度参りをして願いが叶い、友人の病気が治ったとして、あなたは何を尊いと思いますか。
今時冴えないお百度参りを、必死でやり遂げた人物こそが尊敬の対象となるのではないでしょうか。
人を尊敬出来る国に生まれたのですから、やはり人から学ぶことができるのでしょう。
コーランや聖書がなくとも、正しい人物が正しいことを行っている姿を見れば、私たちも正しさに導かれていくような気がします。
宗教者でなくとも、美徳を備える生き方が出来てこそ、良い人生となるのではないでしょうか。 人生を知る上で、架空の存在を交えて議論してもよいのであれば、宗教は必要です。
だれも答えにたどり着けないのであれば、想定と検証が必要になります。
でもその前に、私たちは人から学び、尊敬し、敬うことができます。
素敵な人生を歩んだ諸先輩方の知恵を継承し、自分の人生の糧としていく。
どうしても心が辛くなったら、ちょっとだけ信仰に頼ってみる。
それが日本に生まれた私たちの人生と宗教ではないかと思ったりしています。

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